大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和36年(う)545号 判決

被告人 津江透

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年六月に処する。

原審における未決勾留日数中百五十日を右本刑に算入する。

押収にかかる書籍「臨床検査の実際」一冊(東京高等裁判所昭和三六年押第二二〇号の二)を被害者朝日生命保険相互会社に、国電定期券、地下鉄定期券各一枚、定期券入れ、御守札各一個(同押号の三乃至六)を被害者牧野八郎にそれぞれ還付する。

理由

案ずるに、犯罪事実を認定する証拠としては必ずしも直接証拠のみによるを要するものではなく、間接的な情況証拠によつても何ら差支のないところであつて、窃盗犯人として起訴された者が自己の所持する盗難品である財物の入手経緯につき弁解を試みたにかかわらず、その弁解の内容自体に事理に背くものや虚偽等があつて到底首肯し難いものがあつたり、あるいはその盗難品を所持していた理由に関し合理的な証明がされないためその弁解に信を措き難い場合にはその者を窃盗犯人と推認することは差支ないものということができるけれども、盗難品を所持していたという事実だけで直ちにその者が窃取したと認定することはできない。何故ならば、盗難品を所持していたことによつてその者がこれを窃取して所持するに至つたものではないかとの推測をなし得ないわけではないが、この程度の推測を生ぜしめるに止まる証拠を挙示するだけでは法が有罪判決について要求する証拠として十分であるとすることはできないからである。本件において原審は罪となるべき事実として、被告人は昭和三五年二月一五日頃より同年三月三日頃までの間に東京都千代田区丸の内一丁目一番地朝日生命保険相互会社四階診療所長室において同会社所有の書籍「臨床検査の実際」一冊を窃取したものであるとの事実を認定したことは所論のとおりであり、右事実認定の資料として原判決が挙示している証拠を検討すると、小出鼎の被害届及び答申書、後藤重弥の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の昭和三五年七月二九日付実況見分調書、原審第三回及び第四回公判調書中証人村下邦雄の供述記載によれば、昭和三五年二月一五日頃より同年三月三日までの間に原判示場所において朝日生命保険相互会社所有の原判示書籍一冊が窃取された事実を認めることができ、中潔の質取事実答申書(記録八一丁)、原審第五回、第一二回各公判調書中被告人の供述記載によれば、被告人が同年三月三日頃前示盗難品たる書籍を所持して原判示中屋質店に赴きこれを同質店に入質した事実を認めることができるけれども、被告人が右書籍を窃取したものであることの直接証拠となるべきものは記録全体を調査しても発見できない。又原判決が証拠として挙示引用している原審第一〇回公判調書中証人鈴木貞夫、第七回公判調書中証人渡辺吉男の各供述記載、警視庁科学検査所長の昭和三五年八月二五日付ポリグラフ検査結果回答書その他記録に現われた各証拠を精査しても被告人が判示窃盗の犯行をなしたものであることを認定するには不十分であり、検察事務官作成の前科調書によれば被告人は昭和二四年より昭和二七年までの間に窃盗罪、賍物牙保罪により有罪の判決の言渡を受けたことが認められるけれども、右は被告人の前科事実に関するものであつて判示窃盗事実認定の資料とすることができないことはいうまでもない。のみならず記録によれば被告人は逮捕されて以来判示書籍の入手所持の経緯につき昭和三五年三月頃地下鉄東京駅改札口附近のベンチに何人かが置き忘れてあつた判示書籍を拾得しながら所定の届出をなさずこれを中屋質店に入質したものであると弁解しておることが認められ、被告人のこの弁解が架空の事実であると認めるに足る証拠もなく、むしろその弁解するところ(原審公判廷において検察官が申立てた予備的訴因と同一事実)が真実に合致するものと認められるのである。してみると、原判示書籍を窃取したのは被告人であるとの公訴事実は結局その証明なきに帰するものというべきであるから、右事実を認定した原判決には事実誤認の違法があるものというのほかなく、右誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから論旨は理由がある。(中略)

原判決が所論の右(い)(ろ)各事実認定の資料として掲げた各対応証拠によれば、原判示各日時及び各場所において原判示の各盗難があつたこと並びに被告人が昭和三五年六月三日右(い)の盗難品であるカーテン一一枚を、同月二九日午後一時頃右(ろ)の盗難品のうちワイシヤツ生地一着分を、同月三〇日午後二時三〇分頃右(ろ)の盗難品のうち短靴一足をそれぞれ所持して東京都千代田区神田神保町二丁目三番地株式会社中屋質店に至り同質店にこれを質入れしたことを認めるに十分であるけれども、右各窃盗の犯行が被告人の所為であることを直接証明するに足る積極的な証拠が存在しないことは所論の指摘するとおりである。しかしながら、およそ犯罪事実を認定する証拠としては必ずしも直接証拠のみによるを要するものではなく間接的な情況証拠によつても何ら差支のないことはあえて多言を要しないところであつて、窃盗犯人として起訴された者が自己の所持する盗難品である財物の入手経緯につき弁解を試みたにかかわらず、その弁解の内容自体に事理に背くものや虚偽等があつて到底首肯し難いものがあつたり、あるいは所持していた理由に関し合理的な証明がされないためその弁解に信を措き難い場合にはその者を窃盗犯人と推認することは決して不合理ではなく経験則に反するものでもないのである。今これを本件について記録及び証拠によつて見るに、(い)のカーテンについて、所論は、被告人は昭和三五年四月頃新宿の末広亭附近の喫茶店「ゴールド」で偶然知り合つた不動産周旋会社の社員と自称する男に貸事務所借入方の周旋を依頼し、その翌日同人と共に貸事務所の下見のため京橋へ行き、エマンテ磁器バンド会社のあるビルを外部から見た後、附近の大阪商船ビル裏側の喫茶店「らぐうん」で休んだ際、未だ事務所の貸借契約も結ばず手金も打つた訳ではないが、同人から将来借受ける事務室の仕切用に使うようにといつて渡されたものであると弁解するのであるが、記録によれば、被告人の弁解に基いて捜査官が調査して見ても、被告人主張のような喫茶店「ゴールド」「らぐうん」、又はエマンテ磁器バンド会社のあつたという貸ビル等は被告人指示の場所附近には存在しない事実、その当時被告人には新たに事務所を借受ける程の資力がなかつた事実、被告人が貸事務所の借受周旋を依頼したと称する相手方の男はその氏名、住所、勤務先いずれも不明の者であつて架空の人物ではないかとの疑が強い事実が認められるのみならず、かような人物から未だ事務所借受の契約も締結されておらず手金も打つてないのに借室に使用するようにとカーテンを渡されこれを受領するというようなことは社会通念上誠に不可解なことであつて事理に背くものというべきである点等を考え併せると被告人の前示弁解は到底措信し難いものといわなければならない。次に、(ろ)の短靴及びワイシヤツ生地について、所論は、被告人は業界新聞の記者で吉祥寺方面に居住すると自称する友人武内某なる男に対しニユースの原稿を渡すことを約し、新橋の喫茶店「エクラ」において右武内より、昭和三五年六月二九日右原稿料の代償としてワイシヤツ生地を受領し、翌三〇日原稿料残額支払の担保として短靴を預かつたものであると弁解するのであるが、記録によれば右武内なる男もその名、住所、勤務先は不明であり被告人が同人に対し原稿を渡すことを約しその原稿料の代償又は担保として受領したものであるとの点については被告人の供述を除いてはこれを認めるに足る何等の証拠もないのであつて、この点に関する被告人の弁解も措信し難い。してみると前示(い)(ろ)の盗難品につき被告人がこれを窃取したものと推認することができるのであつて、この推認は前説示に照らし決して不合理又は経験則に反する判断ではない。原審がその挙示する各対応証拠によつて前示(い)(ろ)の窃取の事実を認定したのは右と同趣旨に出たもので正当であり、原判決には所論のような事実誤認の廉はなく論旨はいずれも理由がない。

(その余の判決理由は省略する。)

(裁判官 長谷川成二 白河六郎 関重夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例